ふだらく

誰の責任か  - 273号 -

去年五月あのウサマ・ビンラディンが米軍により殺害された。アメリカの同時多発テロから十年目のことである。その九・一一からちょうど半年遡ると、三・一一なのである。東北地方三陸沖でM九・〇の東日本大震災のあった日だ。キリのいい符号の一致に何かしらの予感を感じていたころであった。

あの世界貿易センタービルにハイジャックされた飛行機が突っ込み、ビルが崩壊する様をリアルタイムで映像を見ていたとき、現実のものとはとても思えなかった。そしていかなる理由があろうとも、そのテロ行為に対しては公憤・義憤にも似た強い憤りを覚えた。 今回の大震災による大津波の様子は、避難者の多くがその現場からの映像提供者となり、信じがたい現実の光景をあまりにも多く見過ぎて、茫然自失としか表現しようのない感覚が続いた。大自然の猛威による大災害に対して如何ともしがたい感情をどこへぶつけていいのかわからない人が多かったと思う。

なぜこんな悲惨なできごとが生じるのか。なぜあの東北地方の人たちがあのような目に遭わねばならなかったのか。なぜ運悪く津波の犠牲になる人がいる一方、絶体絶命の状況下で奇跡的に助かった人がいるのか。生死の分かれ目は単なる偶然なのか。命は助かっても、なぜ家が流され家族に死に別れ、無一物の状態で苦しまなければならないのか。一体何が悪いのか。神仏は本当にいるのか。説明のつかない不条理なことばかりである。

古来日本人は自然を恐れ敬い、その神の怒りのごとき天災に対しては、逃れがたき宿命として受け入れてきた。このたびの大災害による被災や原発事故からの避難している人たち、ある種の諦観ともいえる態度に多くの外国メディアが驚嘆した。被災者・避難者たちは、向けどころのない不安や心配、怒りや苦悩を静かに耐えているのだから、本来国家の為政者たるものは、もっと己の不徳を恥じ大いに責任を感じてもよいのではないか。識者のなかには冗談交じりに左翼唯物論政権が引き起こした国難ではないかと皮肉る人もいる。一理あると思わざるをえない。

天皇・皇后両陛下が被災地を見舞われて、お一人ずつお声をかけたり、お二人で潰滅した被災地の町に向かわれて黙祷されているお姿は、理屈を超えて胸に迫るものがある。それはお二人がこの日本国の神事の祭祀者としての責任を痛感されているからだと思う。

災害や事故はあっという間のできごとだっただろうが、その瞬間までの万一に供えての準備や心構えという点においては、誰しもが心の中にわずかなりといえども油断やスキがあったことは否めまい。

それゆえ運命を受け入れ、静かに避難生活を送っている諦観ともいえる態度に多くの外国メディアが驚嘆した。時の経過とともに心の傷が癒えるのをひたすら待ち続けるのか。

人間の力ではとうてい対抗できない大自然の猛威にはもはや為す術はないのだろうか。 今回の国難は唯物論政権の為政者たちにあるのではないか、と冗談めかして語る識者たちもいるが それでも何ができるのかを考え続けている。

如何ともしがたく、多くの方同様祈ることしかできないもどかしさを抱くしかなかった。 多くの日本人がどうしていいのかわからない状況のなかで祈り続けている。祈りは気休めかというと決してそうでもない。



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