ふだらく

思念の問題点  - 271号 -

現在日本の仏教各宗派は、同じお釈迦さまの教えから変化発展してきたものととても思えないほど、それぞれが特徴的に自己主張している。とりわけ密教はユニークである。護摩等の加持祈祷や多種多様な神仏礼拝などに代表されるように、多分に現世利益的な要素が強い。それはそれで一般のニーズに応えている部分でもあり、一見欲望に迎合しているようでもあるが、成仏あるいは人間性・精神性の完成という遙かなる目的に向かって歩むための善巧方便なのである。

密教の奥義は深いが、実際的に効験もある。五感を越えた神秘の世界と現実世界とを結びつけている力を最大限に活用する方法ともいえよう。それを引き出すためには想念の力が必要となってくる。いわば念力である。念力を使いこなすには、前提として、見えない世界を信じ、神仏の方向に正しく心が向いているということが要請される。証明になじまない、心のうずきとしかいいようのない深い信仰心が、他界への架橋の理論となる。

危ういところもなくはない。私たちはともすると、力ずくで自分の思う方向に物事を運ぼうとし、それを叶えてくれるのが神仏の思し召しと考えがちである。何が本当に自分にとって必要なのか考えずに欲のおもむくまま祈念すると、自分の潜在意識とピッタリ波長の合う神仏と思しき存在がすり寄ってきて、力を貸してくれることになる。執着の権化みたいなその存在は、私たち凡人の心の揺れを結構見透かす能力があり、正当な手順を踏まずにサッと望む結果を出してくれる。ウマイ話には裏があるものである。それで有難い御利益をいただいたと勘違いをすると、妄信に陥ることとなり、長い目で見るとゆっくりと堕落の坂を下ってゆくことになる。

いまだに密教を魔術か何かと勘違いし、調伏などといって呪詛まがいのことを依頼してくる人がいる。またそういう人に限っていやに教理にも詳しい。真の動機を見抜かずに、拝む側も頼む側も、密教の威力の誇示のみを過信して合意すると、それなりの支援を得て不純な願いながらも成就してしまう。いずれ払う代償は大きなものとなるのだが、簡単には気がつかないところがおそろしい。

密教のポイントといえば、徹頭徹尾イメージングである。心静かに瞑想し、真理を観察する観想である。しかし専門家である私たちでさえ、心の使い方、統御の仕方をきちんと習っていない。ただ「思え」で片づけられていて、不思議なことに、その思う基調となる心の純度や方向性、器の広さが曖昧なままなのだ。菩提心と慈悲心のことである。これでは金剛不壊の結界などできようはずがない。



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