ふだらく

密教の出番  - 270号 -

法力とか霊力とかいうと、一般的には宗教的なことばと思われている。しかし仏教界ではいささか勝手が違い、どういうわけか若干胡散臭い意味合いを帯びてくる。お坊さん方の多くは使うことを躊躇している。神道の世界ではどうであるのかつまびらかではないが、それほど忌避すべきものではなく、それなりに活きていることばであろう。

自分には霊感じみたものは皆無なので、偉そうなことはいえないが、それでも神社とお寺の境内の雰囲気の相違を感じることがままある。単に造りが違うからかもしれない。あるいは実際に匂うわけではないが、墓地があることによる抹香臭さや一種死臭のようなものが漂っているか否かの差かもしれない。

かつてその違いは結界の強さではないかとも考えた。現実的には塀や垣根などで境内を囲むのであるが、それ以外に不可視のバリヤーが張り巡らされていて、どうも神道の方がしっかりしているように思われてならない。由緒ある格式の高い神社などの境内は透き通った清浄な空気が流れていて、不浄で邪悪なものを寄せつけない凛としたものを感じる。なにやら屈強な門番がいるように思われる。

結界の強さは内に住み護持する人たちの意識とも大いに関係があろう。失礼ながら神道には教義がないといわれている。とすると儀礼や作法などを重んずるしかなく、必然「祭祀を司る」という意識は高まり、第六感の感度は結構研ぎ澄まされるに違いない。理論による縛りがない分、融通無碍な現実対応が可能となり、感性が鍛えられる。なおかつ礼節と秩序という安全弁が働き、大ポカも少ない。

対して仏教はまるで哲学である。煩雑な法体系を有し、その解説でがんじがらめである。その教義に当てはまらないものは対象外となる。その対象外が多すぎて、現代の諸問題に対処しきれない。包括統合が得意なはずの密教でさえその例にもれない。

神仏が習合しお互いの弱点を補い合っていた頃は、特に平安の密教僧は、怨霊調伏や病気平癒、降雨などに効験のあるものが多かった。その密教僧もいまや多くの仏教僧と同じく、伝統の上に胡座をかいて事教相の深秘釈に挑戦することなく、訓古学のセンセイや死者儀礼の執行人に甘んじている。

時代錯誤のものは思い切って捨て去り、新しい考えや方法を吸収同化し、密教化を試みるべきである。精神におけるイノベーションである。高野山カフェなんてそのいい例である。神道のような純粋パワーと、伝統に裏づけされた教義哲学とを連動させ、現代の法力・霊力たる智慧へと変貌させるためには、「三摩地の法門」である密教の力は大きいはず。



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