ふだらく

魔法のコトバ - 269号 -

わが国では古来より、言霊あるいは言魂といい、言葉には神秘的な霊力があると信じられてきた。考えれば私たちの日常生活や人間関係はほとんど会話を中心に成立しているのだから当たり前なのかもしれない。言葉を中心に社会が動いているといってよい。一国の首相や大臣が失言を犯すたびに世間が大きく動揺する。近年は師走になると流行語大賞なるものが発表され、一時的とはいえ軽いひと言に国を挙げて同調する。まことに不思議なことであるし、驚くべきことでもある。

私たちは、言葉により、傷つけられ貶められ苦境に立たされる。言葉により、惑い迷い悩み苦しむ。言葉により、喜び楽しみ明るくなる。言葉により、元気づけられ勇気づけられ励まされる。言葉により、改心し立ち直り精進し人をも救う。

弘法大師空海、お大師さまも、「声字実相義」において声すなわち言葉に関する考察を試みており、この宇宙はすべてことごとく音声文字であり、如来の説法にほかならないとお説きになる。しかし私たち凡夫は悲しいかな自覚が足らず、その仏の経文を聞くことができない。真言宗では言葉のみならず、行為と思念とを合わせて重視し、身口意の三業の調律こそが仏への最短距離であるとする。それを即身成仏といい極めて正しいことなのであるが、容易に見えて実はかなり難しい。

女子少年院の生徒に接することが多いのだが、彼女たちは強制的に言葉使いや態度を徹底して正され、それが習慣化するにつれ内面が少しずつ浄化されていく。青少年期の心の可塑性は大きく、愛と信頼による矯正教育の重要性を痛感する。年をとるほど悪しき習性が心中に深く固くこびりついてどうしようもなくなる。そうなると簡単ではないが自律的な自己変革以外方法はあるまい。

五日市剛という人が魔法の言葉としての感謝をすすめている。いつでもどこでも「ありがとう」を呪文のように、ありとしあらゆるものに対して唱え続けることである。ブツブツ唱えている内に、ただのおまじないの言葉が鋭い発見を引き寄せる。嫌な人は自分の写し鏡であったり反面教師であることに気づく。都合の悪い状況は自分の思慮不足や貴重な教訓を教えてくれている。何気ないときに神仏からあり余る贈り物をいただいていることにハッとする。内面が磨かれていくのであろう。水でさえ感謝の言葉をかけ続けると結晶が変わり美味しくなるというではないか。

私は感謝に報恩と祝福を加えたい。報恩は「私はやるぞ」という仏へのお返しを決意する言葉。祝福は「おめでとう」という嫉妬心克服の言葉である。三種の魔法のコトバだ。



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