ふだらく

巻頭言「さながら霞める」より  - 268号 -

大正三(一九一四)年といえば、百年ほど前であるが、第一次世界大戦が勃発した年である。この年に尋常小学唱歌「朧月夜」が創られた。作詞高野辰之、作曲岡野貞一によるもので、このコンビは、「春の小川」「ふるさと」「紅葉」など、数々の名曲を生み出した。

「朧月夜」は、その当時日本中どこにでも見られた、なんの変哲もない春の田舎の光景を歌ったものである。その光景は、せいぜい電信柱が加わったくらいで、何百年間もあまり変わらないものであったであろう。戦後でも高度成長期以前、昭和三十年代あたりまでは残っていた日本の原風景かもしれない。

最近しみじみとこの歌詞を眺める機会があり、あたらめてその美しさに感じ入った次第である。どこか懐かしいのどかな田舎の情景が眼前に広がってくるようだ。春先の夕暮れ時の独特の温度や匂いといったその場の空気感までが漂ってくる。なぜか幼い頃の素直な感覚が甦り、心地よい恍惚感に浸れる。

毎日見慣れている当たり前の風景のなかに埋没している真や美を見つけだし、それをやさしい言葉で紡ぎ出す。今の私たちにもっとも欠けている感性ではないだろうか。単純明快であった昔と違い、情報過多で複雑系の現代では、静かに心の受信器をチューニングさせる余裕などなく、むしろ雑音に惑わされていても気づかず、雑音に身を委ねることが快感にさえ感じている人が多いように見える。あまりにも欲望を刺激する誘惑が多過ぎて、よいものを見つけだす感度は極めて鈍っているに違いない。とっくにマヒしているといった方がよいかもしれない。

発想が自己中心的になっているから、自分に都合の悪いことに対しては敏感に過剰に感情的反応をし、そのまま被害妄想の世界に閉じこもる。先日秋葉原でとんでもない事件を巻き起こした加藤容疑者も、「人を信じる」ということができずに、ついに心の闇に支配されてしまった。数年前大阪の池田小事件を起こした宅間死刑囚の精神状態にも無明の深さを痛感したが、この加藤容疑者に対しても無力感しか持ち合わし得ない。何とも皮肉なことに池田小事件と同じ日の犯行であった。

両者ともに、よきもの、素晴らしきもの、崇高なるものへの想像力が決定的に欠如している。夢や理想、人生や生死について真面目に考えることを全くしなかったのであろう。正しい信仰を持ち、正しく考え、豊かにイメージする力を訓練すれば、自己を取り巻く不自由さや不条理の先に、心の自由と平和を見いだせたであろうに・・。数学者岡潔先生のいう「情緒」の涵養、いわば情操教育、宗教教育の重要性を今こそ考え直さねばならない。



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