ふだらく

当院の住職、橋爪良真と申します。
機関誌「ふだらく」は隔月発行しております。
「ふだらく(補陀落)」とは、観音菩薩の住処、あるいは降り立つとされる山のことを指します。ご希望の方はお申し出下さい。
一部お送りさせていただます。
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愛の度数  - 274号 -

弘法大師空海・お大師さまは、人間の心はその宗教性に応じて十段階あると「十住心」を説かれた。各住心はそれぞれ諸宗の精神性を表していて、一種の教相判釈となっている。最上位の十番目は「秘密荘厳心」といい、当然真言密教に配されている。これは単なるランクづけでなく、菩提心の発展段階を示しているといえ、上位の心が下位を包含しながら最終的に密教がすべてを統合するのである。それぞれが位置する立場や状況のなかで、全体における何らかの役割を果たしていると考える、いわゆる曼荼羅の思想である。

ところが世の中には、われのみが正しいと考える排他的な宗教や思想が多いのに驚かされる。独善的な優劣の序列によって正邪の判断をする宗教、神仏を否定する考えを基にした一方的な教育を施す独裁的な国家、信じない自由もあるといって憚らない無神論者、「自分的には・・」と単なる好き嫌いの感情が判断基準の自己中心的人物。それらは人間のあり方そのもので、どうしようもなく、仕方ないと諦めるべきものなのだろうか。団体にせよ個人にせよ特徴的なことは、意にそぐわないものは批判し軽蔑し、妙に自信家で怒りっぽいことである。その心の中を覗いてみれば、そこにあるものはおそらく、偽善・独善・怒り・怨み・妬み・虚偽・疑い・不信・侮蔑・優越感・エゴ・悲観・劣等感・逃避・放棄・無責任・・・。キリがないが、これはやはり苦と言わざるを得まい。もっとも本人は苦だとは思っていないだろうが、冷静に眺めてみると、何かが決定的に足らないような気がする。それは何かと敢えていえば、仏教的ではないが「愛」の欠如としか言いようがない。愛とは、自分のことよりも他人のことを考えることである。少なくとも自分が幸福であることが他人を害さないよう思いやれる心であろう。

心にも実力があるのだが、それは悟りの度合いであり、愛の度数と言ってもいいかもしれない。目には見えないし、計り知ることもできない、抽象的概念のようなものであるが、実は愛というものは点数化されているのではないかと考える。それはすべてが明らかにされる仏の世界の基準によってである。

心の発展の可能性は誰しもが平等に持っていて、その顕現の仕方は各自の精進の過程で差が生じる。多様な価値を認める寛容性を含みつつ、それらを統合しようと理想を求める願いが愛の度数を決める。地位や肩書、表面的な実績は通用せず、心の業績である本性のみが正しく総合的に評価されるはずである。

表面的に真言密教を奉じているというだけでは「秘密荘厳心」であるとは言い難い。心中の愛の度数をどこまで高められるかだ



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